小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

第16話(その2)2015年10月


 平成27年10月吉日


スピリチュアル エピソード 第16話 (その2)


キティ台風の中心に!

小泉平一の日記に残された台風の意義


第二話 キティ台風を司る神の許に
     平一を伴なったたアム王とは―。


 平一の昭和24年1月30日の日記に、アム王のことが記されています。

 その宵、平一は霊界に行ったとのことです。樹木一本無い荒涼とした道を一人歩いて行くと、東洋と西洋とをごちゃまぜにした様な大きなアーチ形の門がありました。
 その門を入って更に行くと、今迄見たことの無かった古代西洋の建物が軒を連ね、そして、緑の丘と遥か向うには連山が繋がっている、まるで絵に描いたお伽の国の様な、美しく、心が和む街にたどり着きました。
後で判ったことですが、この町は“グラーマーヤ神界”と云うところだったのです。
 素晴らしい街なので、ゆっくり見物を−と思ってふと気が付くと、何時の間にか、花模様の彫刻で飾られ、緋色の絨緞が敷かれた豪華な部屋にいたとのことです。
 きょろきょろ辺りを見ていると、突然目の前に、古い時代の西洋の方で、白いガウンに黄金の飾り付きの黒いベルトを身に纏った、白髪で柔和な霊人が出現し、平一を「こちらへ」と誘いました。
 案内されるままに後をついて行き、そして石造りの階段を上ると、広いホールに辿り着きました。
 床は目の覚めるような美麗な石が敷き詰められ、正面に円柱が林立していて、その後ろが大きな広間になっていました。その広間の床に敷いてある、幾百畳もあろうと思われる絨緞の見事さには、言葉もありませんでした。
 するとその霊人が、次の間から「小泉、小泉」と呼ばれ、その部屋に入っていったとのことです。

 以下、日記の原文を転記致します。


 「部屋は光で充満していた。そこの一段と高いところのイスに腰掛けておられる霊人から出る光なのである。
私を導いた霊人は、私を玉座かとも思われる椅子に坐しておられる、この霊格の高い霊人の前に連れてこられた。そうして、片手を前にぬっと出してちょっと頭を下げた。これが、この高い霊人に対する挨拶の儀礼なのであろう。私は日本流に頭を下げた。
この方ももちろん日本人ではない。何処の国の方であるかは判らないが、かなり古代の西洋の人である。頭に黄金の宝冠をかぶられ、髪の色は銀の様に白い。髭も同様、銀の様だ。ただ、純粋の白毛人種とは思われない。何処か東洋的な面立ちである。かなり老年の様に見受けられた。服装も純白のビロードのようなもので、裾のかなり長いものである。
「物静かに語られたことが、私にはなめらかな、荘重な日本語で聞こえて来るのも霊界の不思議さである。
『平一、御身の事は此処らでもよく知られておる。御身は神から命を受けた者じゃ。油の仕事にはなかなかの困難がある。しかし、御身はやり通さずはなるまい。今日、この界に御身が来られたのは、よいしほじゃ。御身の心の糧にもなり、御身もその認識を深めるであろうから、御身の仕事がどの様なる意義があるかということを、少し語ろう。』
とこの霊人は私の仕事の意義の重大さを私に説かれた。そうして私は、どんなに深い感動を受けたことであろう。
しかし、修行未熟な私は、霊界に居る時は、この霊人の語られた秘事を魂に銘じて聞いていたが、現界に帰ると同時に、夢を見たようなボヤケタ心地になって、大事なところを忘れてしまい、どうでもいいところだけは、はっきりと覚えている。
これは肉体に帰ってからの事であるが、このことについて私の支配霊は,『それはあたりまえのことだ。しかしお前は忘れても、お前の霊体は聞いたこと覚えている。
その秘事は、お前がもっと向上して、真に霊体と一体になり得るなれば、己の霊体の記憶を探すことが出来るだろう。』と語られた。
私は感激を持ってこの霊人の話を聞き終えた。そうして、この界はどうゆう名の界か、又霊人は如何なる方か、幾年位前の方かと、いつもの詮索癖が出て、ぶしつけに聞いたものである。霊人はニコヤカに種々答えられたが、どうも私の記憶にははっきりと残らない。
名は『アム』と云われることを覚えている。
紀元前八百年ぐらい前の方で、これは従者の霊人が語られた事であるが、西洋史に名高い王でいられたとのことである。しかし生前の名は云われなかった。
この界の名であるか、それとも生前、王のいられた国のであるか忘れたが『グラーマニア』と云う名詞を私は記憶している。
私が肉体に帰える時、すなわち私の肉体が統一に専念している世田谷の赤堤宅、八畳の客間まで、この霊人が見送って下さった。私の幽体が意識と共に肉体に帰ってからその瞬間、統一から覚めた時、霊身光り輝くこの霊人が、私の肉体の前に暫く立たれていたので、お見送り頂いたことに気が付いたのである。この様なことは私にとって初めてのことである。』



 私は旧約聖書の世界には迂遠でありますが、この「アム王」についてネットで調べてみると、古代イスラエルに「ヤラベアム王」と「ハレムアベ王」という二人の王の名がありました。
 ネットでのデータの精度には多々疑問がありますが、参考のため、この二人の王についての記述の要点を抜粋いたします。


☆「ヤラベアム王」は
イスラエルの十部族王国の最初の王でした。
エフライムの部族の出身で、幼くして父親を失いましたが,長じて「ソロモン王」に仕え、勇敢で統率力に優れ、勤勉であることが評価されて,将軍に取り立てられました。
 ところが「ヤラベアム」に、預言者「アヒヤ」が “エホバが12部族で構成されているソロモン王国を二つに引き裂き,汝を十部族の王とする”との予言を伝えました。
 これは王国を2つに分離することで,そして「エホバ」は“「ヤラベアム」が神の律法と掟を守るなら,その統治を祝福して、後継者達が永久に国を統治できる”とのを保証されたのです。 
 ところが「ソロモン王」は、その予言を聞いて国家の危険を感じて「ヤラベアム」を殺そうとしました。そこで「ヤラベアム」はエジプトへ逃げ,「ソロモン」が死ぬまでその地に留まりました。
 そして西暦前998年に「ソロモン王」が没すると故郷へ戻り,「ソロモン王」の後を継いだ息子の「レハベアム王」に、民への重税軽減を訴えました。
 ところが,「レハベアム王」はその要求を退け,かえって民の負担を増やす圧政をひいたのです。
 その政策に反抗して、イスラエル12部族の内「ユダ」と「ベニヤミン」を除く10部族が立ち上がり、戦いの末「ヤラベアム」を王とするイスラエル(北)王国(BC922)が誕生しました。イスラエルが北と南に分裂し、預言者「アヒヤ」の予言が実現したのでした
 両国は分裂後も闘争を重ねましたが、エジプト、アッシリアなどの強大な王国の圧力に脅かされて政情が不安定で、その上、ユダヤ教の信仰も揺らぎ始めました。
 「ヤラべアム王」は、国民が「レハベアム王」の南王国の首都エルサレムにある、ユダヤ教の神殿に参詣することで、いずれ自分に反逆するのではないかと危惧し、外国から"黄金の子牛"を礼拝する偶像崇拝の宗教を導入して国民に奨励しました。
 「エホバ」は預言者を通じて、「ヤラベアム王」に偶像崇拝を止めるよう警告を発しましたが聞き入れられず、その結果、「ヤラベアム王」はBC977に没して22年に亘る治世が終わりました。


 ★一方、「レハベアム王」は、「ソロモン」がアンモン人の妻ナアマによってもうけた子で、西暦前997年に41歳で父の後を継いで王位に就き,国を17年間治めました。
 「レハベアム王」はイスラエル統一君主国の最後の王となりましたが、民に対して尊大で高圧的な態度で圧政をひいたため、10部族が「ヤラベアム」を王とする北イスラエルとして分裂し、「ユダ」と「ベニヤミン」の2部族の国になってしまいました。
 「レハベアム王」は、一時、18万人の軍隊を召集して、十部族を力ずくで自分に従わせようと決意しました。ところが,「エホバ」は預言者「シェマヤ」を通して、兄弟同士が戦うことを禁じ,王国の分裂は神の経綸であると諭しました。
 そのために、大戦争は回避されましたが,両国の敵意は収まることがありませんでした。
 「レハベアム王」は、当初は「エホバ」の律法に従って善政を布きましたが、王権が確立されるとその崇拝を捨て,母方のアンモン人の“性崇拝の宗教”を導入して、民にその信仰を強要するようになりました。


 そのために「エホバ」の怒りを引き起こし、エジプト王「シシャク」に侵略されて、数々の宝物を奪いとられるなどの災厄を蒙りました。
 「レハベアム王」は生涯に18人の妻と28人の息子をもうけて、BC980年58才で没しました。
 その生涯を総括して“彼は悪いことを行った。彼はその心を固く定めて、エホバを求めることをしなかったからである”と云われております。



 この二人の王から、何れも「エホバ」の戒律を破って外国の宗教を引きいれるなど、古代の王としての強烈なパワーと個性の強さが感じられます。
 二人の王を比較して、私は、平一を導いた「アム王」は、私は「ヤラベアム王」の方ではないかと思いますが、いかがでしょうか。


 なお、その後、「アム王」のことを記した平一の資料は皆無であり、子供心に、元旦や祝日等での神棚での祈りの対象として、この名を耳にしたとありませんでした。
 では何故このひと時、古代イスラエルの王が平一の守護神になったのでしょうか。

 主護神、主護霊を始め、一人の人間を護り指導する神霊の多くは、その霊統に連なっております。
 世に言われている日ユ同祖論<日本民族とユダヤ民族が同根であるとの説>、ひょっとして、小泉の霊統を遠く遡るとー、私はいずれ霊界で、ローム太霊にこのことを教えて頂きたいと、これも研究者としての楽しみであります。

                                      完