小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第四十話B)2022年6月


令和四年6月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第四十話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第四十話

ローム大霊の聖経に記された

神業達成への道筋について


その3 神業達成の道筋を担う奇人、
          漸く巡り会ったが空しくもー。


 ところで、平一を初めとする神業の関係者は、この神業の道筋をつける奇人との邂逅を待望しておりました。
 平一がこの神業達成には奇人の力が不可欠であることを、いずれの神霊から何時教えられたかの記録は見当たりませんが、4月にお話しした様に、「四空経録」に「奇人確立 無双神力」と、「三光道萬寿寿経文」には「奇人招乗 遍路海洋」という句があります。
 奇人が自らの信念を固めれば、無双の神力が得られる、そして海原の様に広漠とした神業達成への道筋をつけることが出来る、平一はその様に解釈しておりました。
 そして、終に念願の奇人と邂逅し、平一を始めとする関係者は歓喜いたしました。
 その人の名は田原正吾と云いました。大柄で濃い顔つきをして歳は五十代、中古車の販売会社を経営すると共に、長年、小田秀人の菊花会の会員で古神道に帰依、研鑽して何人かの門下を持っている様でした。
 昭和20年代後半には紫光会の降霊会に参列して、主護霊・小笠原利明霊神から幾つもの霊言を拝受しております。
 何時、どのようにして田原正吾が奇人であることが分かり、そして縁(えにし)か結ばれたかの記録は見当たりませんが、恐らく青木謙徳の周旋で、平一が没する昭和58年の4,5年前の事と思われます。
 自分の使命を教えられて、半信半疑で平一に会って神業の話を聞き、そして三光太源の門下に加わると、整体の学校の教師をしている田口という義兄を伴って熱心に例会に出席するようになりました。
 田口は正吾と違って温厚篤実の人柄で、正吾が自分の義兄にもかかわらず田口先生ですと平一に紹介したので、平一もその敬称で遇し、他の門下の人々もそれに倣いました。
 平一は、数回に亘り、その昔正吾が主護霊小笠原霊神から拝受した霊言を解釈して講義いたしました。
 その中には、お前は仙縁を持っており、何時か本当の師に巡り合ってその手足となり、大業をなし遂げる使命を持っているとの文言がありました。
 平一が正吾を信頼した事を示す手掛かりが、平一が残した「幽霊問答」に記されておりますので、その一部をご紹介致します。

 昭和56年1月のある日、訪ねて来た岡野絹と炬燵に入ってお喋りをしている内に急に眠くなり、それで一瞬、統一の状態に入ったとの事であります。
 すると玄関から、麦林楢次郎と菊池豊が、生前と変わらぬ姿で談笑しながら入って来てこたつの前に座ったとの事であります。以下はその会話の抜き書きであります。
 『 「全て経文に書いてある通りだし、君に出る啓示に言われている通りだ。奇跡が無ければ神業は出来ないこと当たり前だ。あの奇人、まだなかなか自分というものが覚れないらしい。今のところは力も固まらないと無理もない」
 「それにしても僕にも分からなかった。新富町(紫光会が開かれた石野商会の住所)で会っていたんだが、まさか奇人だとはね。そう云えば小泉さん、霊言でそんなことを言われたことがある様に記憶するよ、」
 平一 「ぢゃあ、あの霊言の時、記録していたのは君だったんだな。どうも菊池君の字に似ているなと思ったよ。あの当時の霊言は、私の所に預かっているよ。」
 楢次郎 「しかし小泉先生は何とも羨ましい人やな。三光道真経録に録せられ、経録にも録されているということは、神業の録が不滅の限り、彼の名も不滅ということになる。
 然しね。彼が天馬になるか駄馬で終わるか。伯楽次第だが、神が与える伯楽は天下に一人しかいないものねぇ」
 「まず目の問題やね。心配ないよ菊池君、それにしても、北原君は気の毒なことをしたね。並木を奇人と思い込んでいたんだもの、小泉先生には分かっていたんでしよう。」
 平一 「私は北原君に、信仰の無い人間はどんなに遣り手でも奇人じゃないと、再三注意したんだが、まず、もう少し見ていて下さい。と言って聞かなかった。それに資源の池辺さんが太源にとって、並木さんは握っていた方がお得ですって北原君に云っただろ。随分辛かったろう。」―。
 楢次郎 「私はね、小泉先生、生前に奇人に一度お会いしたかった。何と云っても大霊程の神に寵愛を頂いて、三光道真経録、四空経禄の二つの聖典に録せられるということは大変なことですからね。
 是非共私からあの啓示の素晴らしさと、偉大な四天のご経綸とを、膝を交えて話して差し上げたかった。決して分からないような人ではありませんからね。ただ一日も早く、知ることではなく、啓示と神業の偉大さを覚る力を求めて欲しい。それを心から願うわけです―。」

 この様に、麦林、菊地の両君は、歓談して帰って行きました。ただ、不思議なことには、三人で語り合った一言一句が、手に取るように未だに新鮮に耳底に残っていることです―。』

 その様に期待された正吾でありましたが、間もなく心変わりが生じて、平一に絶縁をと言って参りました。平一は再三書状等でその非を諫めた様でありますが了解せず、平一は落胆のままにその歳の5月に没しました。
 その経緯や理由等を記した資料は残されておりませんが、要は自分だけが旨く利用されて、危険負担だけを被せられるとの心の迷いが生じたこと、また、正吾が尊崇する小田秀人が大病で入院した折に、平一が見舞いに行かなかったことに腹を立てたことも其の原因の一つなっているようであります。
 また、私は正吾と取り立てて話をする機会がなかったのですが、当時会社の仕事が多忙を極めていたので、三光太源の斎庭(ゆにわ)に参列することが少なかったことも、不信を招いた種になったようであります。
 その様にして、正吾は奇人としての資格と力を確立することが出来ずに去って行き、平一の奇人招乗は空しく潰えたのです。
 そして平一は没しましたが、正吾は病気だと言ってその葬儀に参列せず、その後の弔いもありませんでした。
 私が最後に正吾と会ったのは、それから数年後に没した青木謙徳の葬儀でありました。そのとき、正吾が私に朝晩のお参りをしていますかと尋ねました。
 私が朝だけにしておりますというと、そうですかとだけ答えましたが「あの先生の息子が何で夜お参りをしないんだ!」と云う正吾の叱正する声なき声が、私の心に響きました。
 私はその声を主護霊からの諭しと反省して、その日から就寝前のお参りを日課とすることとして、今日に至っております。
 完