小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第六話)2017年12月


 平成29年12月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第六話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第六話 「平一の生涯を守護した
      妙義山乗天坊霊神との出会い、

      そして毎年妙義山に−」



 妙義山乗天坊霊神は平一に地下資源開発の崇高な使命を教えると共に、後年、斉藤景時霊神に替わって主支配霊となられて、生涯平一を守護した神霊であります。そして、妙義神社に祭られている妙義大神(妙義大権現大神)は平一の守護神であり、竹内満朋の守護神・妙高山大権現大神と螺をなしている、言わば陰陽のポジションにおられるとのことであります。
 妙義山は赤城山、榛名山と共に上毛3山の一つで、南側の金洞、金鶏、白雲山などからなる表妙義と、北側の谷急山、丁須の頭、御岳等の裏妙義に分かれております。その中で、特に金洞山は別名を中之嶽と呼ばれ、中腹を巡る第一石門から第四石門を始め、ろうそく岩、大砲岩、筆頭岩、ゆるぎ岩、虚無僧岩と云ったユニークな岩石類は、我が国屈指の山岳美と称えられ、日本3大奇景に数えられております。
 それらの奇岩巡りのスタートとなる白雲山の登山口に妙義神社があります。国の重要文化財に指定されている壮麗な権現造りの本殿には、日本武尊、豊受の大神を始め菅原道真、権大納言長親卿が祀られておりますが、ご本体は妙義大神と云われる天冠神とのことであります。山岳信仰の神社としても知られ、本殿の後に天狗が祀られている天狗堂があります。妙義山乗天坊霊神は、この妙義の天狗界の長でありました。
 平一は妙義山乗天坊霊神との出会いを次のように記しております。「昭和七,八年頃かと記憶するが、竹内栄一、杉山峯一の両君を伴なって妙義山に登った。金洞山中の岳第四石門を通り,鞍円の座(天狗の評定場)といわれる屹立した岩上で食事をとっていた時、名を呼ばれた。振り返ってみると、何時来られたのか老僧が立っておられる。思わず食事を止めて居住まいを正した。
 その方が言われるには『自分はこの山の地の神である。お前に引合せたい神がおられる。それは妙義山乗天坊霊神と云われるが、あそこに立っておられる方だ。よくご挨拶してご指導をお願い申せ』とのことで驚いてその方を見ると、数十間先の砲図ノ岩(大砲岩)の上に尊げな山伏が立っておられる、とみると一躍して目前に立たれた。
 『よく参った。我が乗天坊霊神なるぞ。これより汝をしばしば参って指導する故、良く行を磨き神の御心に応える人となれよ』、かく言われたが両君には全くわからなかったのである。」


 それから妙義山乗天坊霊神を背後霊として祀ると共に妙義大神を崇拝し、太平洋戦争末期から終戦後の混乱期、再興した小泉商会を義弟に任せて石油資源開発に没頭したため、そのことがトラブルとなって貧苦に喘いだ歳年においても、欠かさず妙義神社への参詣を続けました。そして昭和20年代の終り頃からは、毎春多い時には十数名の門下の人々を連れて、定宿となっている東雲館に一泊して妙義神社に参詣し、それから石門巡りをして第四石門の日暮の景の前で、ひむろぎを立てて妙義山乗天坊霊神のお祭をすることを常として、それは平一が他界する前年の昭和56年まで続いたのでした。 
 その昔、乗天坊霊神との出会いの話を聞いた時に「何故、妙義山に行ったのですか」と尋ねたところ、たまたま一度行ってから何か心が惹かれて、その後度々行楽に訪れたとのことでありました。
 なお、この時同行した竹内栄一は後年の竹内満朋、杉山峯一は幼馴染であります。杉山峯一とのその後の交友の記録は残されておりませんが、峯一には大正14年に自殺した要三と云う弟がおりました。要三は平一と類魂を同じくすることから、死後平一の祈りによって救われ、その祈りに合わせて自らも行を重ねて,格を高めたとのことであります。
 そして昭和14年10月11日の 降霊会に出現して、メガホンを通じて次のように語っております。
 「僕です、僕です、杉山です。小泉さん身体如何ですか。あんまり気にしないでください。小泉さん気が弱い、もっと気を強くして下さい。からだは心配ありません−」。
 以降、平一の背後霊の一柱となって、 降霊会やあるいは自動書記によって色々と神霊界からの諭しを伝えております。

                               完