小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

第14話2015年7月


 平成27年7月吉日


スピリチュアル エピソード 第14話 


夢で竹内満朋師の霊に教えられた母の死



  最後の物理霊媒・竹内満朋師が他界したのは、平成3年12月24日・クリスマスイブでした。
 2002年度の「ムーミステリーコンテスト入賞作品・知られざる物理霊媒竹内満朋」で記したように、師は父平一の義弟でありましたので、通常、人前では叔父さんと呼んでいましたが、三鷹・紫風苑での 降霊会の後で、色々と教えを乞う際は、参列者が父のことを先生と敬称しておりましたこともあり、多少おどけて大先生と呼ばせて頂き、師も折にふれて「宗雄君は私の弟子だからな」と云って、何かと可愛がって頂きました。
 昭和59年の春、師が何回目かの大病で倒れ、以降 降霊会が途絶えてしまいました。前年父が他界し、病床の母の看病と仕事に明け暮れる私には、大変な打撃でした。
 それでも、妻の章子を娶ってその挨拶に出向くと、主護霊と主支配霊の尊名を教えて頂きました。真に有難いことに、師にまだその力が残されていたのです。これも偏にローム太霊の恩慈かと感激しました−。
 母が他界したのは、平成5年10月29日でした。父の他界する4日前に脳梗塞で倒れ、一度退院したものの再発し、永福病院、広尾病院そして千葉の初富保健病院と、転々としました。
 そしてようやく色々な方のご厚意で、千歳船橋にある有隣ホームにお世話になることが出来ました。言語や身体の動きに不自由がありましたが、穏やかな性格が幸いして寮母さんの受けも良く、週一度、私と章子が見舞いに行くのを、首を長くして待つ日々でありました。


 母が他界する数日前のことです。夢を見ました。私は板張りの道場かお寺の庫裏の様な所に座っていました。半ば暗闇なので、姿は見えませんが何人かの人がいるようです。すると、奥の方から、師の夫人好さんの声で「皆さん、 降霊会が始まりますよ」そう知らせがありました。
 その声につられて立ち上がり、奥に行くと、四角な無垢の木の台があり、その上にピノキオの様な木製の人形が置かれていました。私と、姿ははっきりしませんが、何人かの人がその周りを囲んで座りました。
 すると、その人形がくるくると回りだし、「お前達、今日は何でも知りたいことを教えてやるぞ―」そう叫んだのです。それはローム太霊の声ではなく、聴きなれた師の声でした。
 「父は如何しているのでしょうかー」私はそう尋ねました。するとその人形が「あの男は今、太霊の遺跡を訪ねると言って出かけておる」その様に答えたのでした。
 「はあー」私は次に質問しようとして、何気なく目の前の板壁を見ると、そこにはずらっと木の名札が吊るされていました。
 「小泉平一霊人」を始め「竹内満朋霊人」、「菊池豊霊人」「北原猪義霊人」「桑原時雄霊人」「麦林楢次郎霊人」「石野芳子霊人」等々と、すでに他界した懐かしい先達の名が連ねてありました。そして「はっ」としたのです、その中に「小泉さき霊人」と母の名札を見つけて。
 「そうか、母はもう幽界に来ているのか」それから数日後、母が他界したのです。
 その日は晴天でした。有麟ホームに併設されている有麟病院の、母の亡くなったベッドの窓の外には、蜜柑がたわわに実り、遅咲きのコスモスが咲き乱れていました。
 「蜜柑たわわ 母が行きしは浄土なる」この知らせのお蔭で、穏やかに母を送ることが出来たのです。

                                      完