小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内
令和元年9月吉日
スピリチュアル エピソード 特別編 第二十五話
(その3)
第二十五話 平一の3人の子供と水子が
一人、
ところがもう一人水子がー
その3 末っ子に生まれながら跡取りと
なった私の青春時代と、
死後3度霊夢で訪れた道雄兄
私が松沢小学校を卒業すると、もう両親は日本学園に進学をとは言いませんでした。そのために、地元の世田谷区立松沢中学に進学したのですが、そこで事件?が起きたのです。
松沢中学は当時校舎を松沢小学校に間借りしており、進学した160余名の大半は松沢小学校の卒業生でしたが、入学式に先立ち、クラス分けをするための試験がありました。
その試験でなんと私が一番だったのです。入学式は、松沢小学校の校庭で行われました。校長先生の歓迎の挨拶が終わると、教頭の大塚次郎先生が「小泉宗雄君いるか」と叫ばれたのです。「私です」そう返事すると「君が一番だった。そこの演台に昇って、答辞を云い給え」いきなりそう言われたのです。
それから頭が真っ白になり、記憶が途絶えました。そして、地獄の様な中学生活が始まったのです。
私はそう出来の悪い方だとは思っておりませんでしたが、舌足らずと云う軽度でしたが言語障害があり、性格も大人しくて引っ込み思案でした。それが学級委員長になったのです。いきなり置かれてしまった立場、周囲の期待感の重圧、併せて学友達のやっかみで地獄のような日々が始まりました。
両親には、1週間ほどしてそのことを話したところ、其れは良かったと喜んではくれましたが、そのための苦しみまでは言いそびれてしまいましたー。
2年生に進級するとさすがに身心共に落ち着き、学友達とのわだかまりも逐次無くなり、今では懐かしい思い出となっておりますが、私が味わった人生最初の苦難でした。
そして、都立青山高校に進学し昭和29年卒業しました。ところが家は相変わらずの貧乏で、平一の神業もなかなか進展しませんでした。とても進学出来るお金が無いことは判っていましたので、せめてもとの思いで両親に内緒で大学入試の模擬試験を受験し、希望校に早稲田大学と記したところ、極めて有望である旨の成果を得て満足しました。
ところが平一は幸雄兄と違って、就職しないで家に居ろと言うのです。後から判ったことですが、神業の石油開発について色々な話が進んでおり、その目途が付いたら進学なり、あるいはその手伝いなりをすることとなるので、なまじ就職すると直ぐ辞めることとなって、その会社に迷惑がかかるからとのことの様でしたが、自分の行く手が見えないで、焦りの日々が続きました。
せめてもの特技と思い、近くの算盤学校に通って2級の資格をとり、それから近くにあった青果市場の午前中だけの荷物運搬のアルバイトを見つけて、半日2百円の収入を得ました。
しかし、その後も平一の神業は一向に進展せず、2年ほど経ったある日、意を決して渋谷の職業安定所に通って、恵比寿にあった綜合統計研究所に算盤2級の技術を買われてパートタイマーに、やがて集計部長の水野さんに認められて、社員に採用されました。
その時の条件として、将来、定時制の産業能率短期大学に進学して経営学の勉強を―とお願いして了承を頂きました。そして、8年後に社費での進学が叶いました。
自分の進路が見つかると、心配になったのは不治の病で療養している道雄兄の事でした。
幸雄兄が私にしてくれた言わばお返しとして、毎月幾ばくの小遣いを渡して大変喜ばれました。
そして久我山病院に入院することが出来ると、病弱なので中々見舞いに行けない両親と、日々仕事に追われている幸雄兄に代わって、ちょくちょく見舞いに行きました。
そんな私に、言葉では言いませんでしたが感謝していたようで、その結果、死後3回も霊夢で、1回目は死後間もなく、2回目は数年後に、これから遠くに行くからとの挨拶に、3回目は死後十数年を経過した昭和53〜4年になって、お世話になった方に渡して欲しいと一万五千円を持って私の元に出現しております。
後から思うと、そのお金とは、道雄兄がその間にあちらの世界で積み立てた徳だったのではないでしょうか。
そのことはスピリチュアルエピソード第8話「夭折した道雄兄が、三度私の元に−」で、水子の一雄とみほこの事は、同じく第18話「幽界に旅だった“はらからたち”からの応援歌」でご紹介しております。
完