小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第四十四話K)2024年6月


令和六年六月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第四十四話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第四十四話

三光太源会で平一が、門下に教え諭していた

ことはー


その8 神霊界の実相「術というものについて」
     ・続き その4

 それにつけても皆は、大きな術の力に抱擁されている時は、その恩恵を忘れがちである。命があればこそ紫風苑においては教えの種を植え付けられ、三光太源の門においては、その種に生命の息吹を吹き込まれている。
 竹内栄一という世にも稀有な霊媒者の立派な術によって導かれ、直接談話という心霊現象によって、ローム大霊という偉大なる神霊の神言を仰ぐことが出来、永劫の彼方におられる自らの主護霊の謦咳に接することが出来ているのである。勿論、ローム大霊の神力によるところではあるけれども、竹内満朋の術の徳でもあるのだ。
 今の世に、直接談話という術を使う霊能者は少ないが、それでも世界には幾人もいるかと思われる。 日本にも、かっては三人がいた、だからこの術は、決して彼一人の専売特許ではない。
 けれども、同じ心霊現象という術を使っても、各人その霊格は異なり、叉、命の格が異なるのは当然である。然らば霊能者としての命の格の高低、大小はどこが違い、どこによって判断するのかと云うなれば、それは霊能者自身の人格の高低でもなければ、術の力の大小によって一概に決まるものでもない。
 それはその人間を霊媒として使い、そして教えを垂れる神霊自身の格の大小で定まり、又その垂教の内容及び意義の高下や、深浅によって決まるものなのである。
 むしろ、天狗とか妖精とか力のある動物霊の力ある連中は、霊媒者を使うにしても派手であり、その霊能も衆目を驚かす術をやるものである。
 如何なる霊能者にせよ霊媒にせよ、人間の本当の主護霊を、その心霊現象の上に出せるということは、めったに出来る事では無いのだ。主護霊とは神であり、奥深い所におられる神霊でもある。だからこれを呼び出すことのできる神霊は、主霊より数倍の力があり、神格をもたれた神でなければ、使うことは困難である。
 かつまた、主霊を現象の上に出すだけでも、術者自身の霊格と、術の格とその命を持たない限り、出来る話ではないのである。
 私の知る限り、守護霊と名乗る霊を出す霊能者はいるけれども、それはその人自身の一支配霊か、或いは霊能者自身の背後霊が、その様に化けて名乗るものがほとんどと云って良いのである。守護霊は勿論主護霊とは違う。
 何といっても、竹内そのものの命は素晴らしいものである。命であるところの術は、それを以て三光の神に仕え、大霊の御心に叶った術になって行ったのである。そして、その術を捧げて大霊の媒体となり、今の世にあって初めて、神界、霊界、幽界、現界の実相を現し示す、大いなる礎石になったのである。
 そしてローム大霊は、彼の術を司り操りながら神人交霊の沙庭を開かれ、未聞の霊教、未聞の霊訓を垂示し給い、真の大道の何なるかを指し示されたのである。
 そのような使命を持たれた彼の術こそ、洵に偉大というべきで、麦林釈読法の命と共に、双璧、後世に光を伝えるものと云えよう。
 前項から引き続き説いてきた様に、術というものを身に付けるならば、多くの人から頼られ、崇められ、又どんなにか自身の守りにもなり、助けになるのみならず、それは実に自らの力の現れであり、又光なのである。
 またそれが、どんなにか人助けとなり、世のため人の為への大いなる燈火ともなるのである。
 おそらくは人間誰でもが、術と云うものの真実を知ったなら、どんなにかそういう力を、又術を欲しがることであろう。
 けれども、法に則って道を修め技を磨かなければ、神は術をくれないであろうし。又自身に会得することは、猶更難しいことと思われる。
 西霊の青光の中に身を沈めて格を贖い、その法に至って奇鬼神の神通力を使う技を磨くなら、南東の緑?を靡かせることも可能である。これまた開運の法であり、術である。
 キリストが盲をあけしめ、いざりを立しめたのは、積行によって与えられた神の力であり、それこそ術に他ならないのである。
 パウロが自身の歩く影で、病者を癒しめたと伝えられているが、恐らくこの伝説は本当の事であると思う。
 如何に遠く離れていても、自身の浄?は常に近きは五間、十間、遠きは十丁、二十丁の周辺に迄放射されているものである。来る道に於いて、其の?に触れた病者は一瞬にして癒え、或は、電話で声を通じただけでその?に触れるならば、これまた瞬時にして病気は癒える。それは東京都内であろうと、大阪であろうと。距離の遠近は問はないのである。
 腹病が癒え、不快が癒え、頭痛が癒え、ノイローゼが癒え、手足の痛みが癒えたという奇跡の体験を、皆は今日まで幾度か、身を以て体験していることであろう。
 その人の波動の中に入り、常に接するならば、その?は自らの心を正さしめ、自身の悪気はいつともなしに浄められ、病気は癒えて爽快となり、明日への勇気と光を与えられる。そのような奇跡と体験を、皆は今日まで幾度かその身に知らされていることであろう。
 これらの奇跡を解明するならば、その力はすでに術と云うものの領域を、はるかに超越したものであるのである。では何がと云うならば、それはその人の霊体から出る、浄明な霊光の力に他ならないということを、認識しなければならない。
 霊体から放射される強烈な浄光は、相手が贖うべき因縁霊でない限り、霊光に触れた憑依霊は、瞬時にして焼き消されてしまうのである。霊体の光と同様に、その人から放たれる?もまた同じ奇跡を呼ぶのである。その如く。パウロ自身の影も、術ではないのだ、世人はそれを「徳」と云っている。
 ローム大霊の「霊訓」にも三角の力、即ち?光交流の術を完全に使えるならば、そこに必ず望の花を開かせるせることが出来ると迄訓されておられるのである。
 或いは又、四体合体の術を以てするなら、顕幽の出入りは自在であるとその法を説かれている。これまた心して修め行くならば、決して不可能なことではないと思われるのである。
 それ故に、ローム大霊はこの例をローム霊訓第百項にひかれて、このように垂示されておられるのだ。
 「前項で話したように、人間で居りながら、そのカラダが幽界、霊界、遠くは神界に行かれる方も、たまにはおられる。
 必ず、それらの人々の光を自分も受け入れて、今日まで話したところのこの話の光はロームの光と思い、閑があれば読み直して、自身の肉に付けなければならない。」
 然しながら、前者も後者も、この二つの力は実に仙術における秘法とも言うべきであって、前者は神の力を自己の心身に導入出来る、最高の術法であることを悟らねばならぬのである。
 真の大道を修めている人達は、いずれも其の積み重ねた修行が光って来るにつれ、先日の講義で話したように、自身の霊体の光が増すならば、かって度々身を以て体験した様に、何時かは自身も又手を下さずして、人の鬱気や病気を癒してやることが出来るであろう。
また、電話の声を通じただけで、相手の頭痛や病気を消してやるという奇跡を、起こせるようになるのであろう。そうなることを心から私は皆に願っているのだ。
 然しながら。自身の?が身辺数丁、数十丁、数里にまで達して、その気に触れた人に不思議を与えるということは、神なら知らず、我々の様に人間としては、霊体の光だけで、それだけの?光が出るものでは無い。その奇跡の真実を掘り下げて解き明かすなら、それは神から賜った霊宝そのものの威徳が、放って起こる奇跡に他ならないのである。
 今日また、各人が戴いてきてた部質に捧げる霊宝、各人それぞれ賜ったものは勿論異なる。又その力も異なるのは当然である。それらの物は部質ではないから、凡眼には見えない。然し幽眼ならその物の陰というのは変だが、少しゆがめられたものに見えるし、本当の霊眼が開いているなら、それそのものをハッキリと見ることが出来るのである。
 皆には今まで行で賜った霊宝を、霊夢で知らされた体験があると思うが、そしてその威力さえも、チャンと霊夢で知らされ、予言されているのである。
続く