小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第四十三話)2023年5月


令和五年5月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第四十三話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第四十三話

門下の中の特別な3人、

  北島いよ、飯浜美代子、岡野絹について


 北島いよは本名橋浦かすえと言い、伝え聞いたところによると、北海道の浦佐で長女として生まれたとの事であります、長じて、貧しい家計を助けるため、東京に出て芸者となり、その後、贔屓筋に引かされて堅気となり、そしてとある新興宗教に帰依して、世田谷の宮の坂でパン屋を営む飯島という人と懇意になり、昭和30年代の初めに、その紹介で平一の門下となりました。
 飯島は間もなく平一の元を去りましたが、いよは留まって熱心に行業に励みました。そして平一はかすえから、贔屓筋と別れて家を出たいとの相談を受け、名前がそのままでは、直ぐに探し出されてしまうことを危惧して神霊にお伺いし、北島いよという名を名づけたとの事であります。
 家を出たいよは、益々熱心に行業に励み、平一が格別の思いでこれを指導している内に、どの様な経緯によるものかの記録が残されておりませんが、平一の神業に関わる驚愕の事実が明らかになりました。

 平一が太古、神界を統治する王の一人だった時、東西南北の四天に宮殿があり、それぞれに后がいたとの事であります。
 そして、妻のさきの他に、いよも又その一人であったとの事で、平一の神業の完成を助けるために、今生、生を得て平一の元に縁を得たとの事であります。
 そして、いよには。さきと同じ様に、白羊の秘・神にその身を捧げる使命を与えられているとの事であり、その贖いのために、生を受けてから苦労が絶え無いのだ、との事でありました。
 その様なことから、三光太源会の運営を担当して、会員の中でも特別な存在となりました。
 因みに、スピリチュアルエピソード第19話「幽界に旅立ったはらから達からの応援歌 その3 生きていたらきっと美人にー。水子のみほこは赤いスカートが可愛くて」でお話しした、みほこの母親のKさん、それはいよの事であります。
 平一が使命を果たすことなく没したことに、母さきと共に、他の誰よりも嘆き悲しみましたが、その後何とか心を立て直して行業に励みました。
 ひと時、私がその生活を支えましたが、やがて生活補助を受けるようになり、平一が没した28年後の平成23年4月5日に、終の棲家となった川崎市宮前区「有料老人ホーム宮崎台の杜」でこの世を去りました。享年は不詳であります。

 飯浜美代子は信州の生まれで、師範学校を卒業して小学校の教師となり、浅草小学校で校医を務めていた桑原時雄にすすめられて、平一の門下となりました。時雄が平一の元を去った後も、岡野絹等と共ら平一の元に留まって熱心に行業に励み、その余光で「担任する学級の児童の成績が上つた」と喜んでいたのを覚えております。
 そして多くの教え子から慕われた様でありますが、縁に恵まれず、生涯独身を通しました。併せて、どの様な理由かは判りませんが、校長への昇格の試験を断り、五十代で教職を早期に退職しております。
 その内、これも、どの様な経緯からかは記録が残されておりませんが、美代子もまた、平一が神界にいた時の南幽の宮殿の妃であったことが判りました。
 平一に師事しながら、小学校の教職にある所謂インテリとして、いま一つそのことを信じ切れずにいた様でもありますが、主護霊から南王舎大神を特別に拝むように指示されて励むと共に、三光太源の斎庭と行事には、ほとんど皆勤していた様であります。
 そして、門下の誰よりも長寿を果たして。平一が没してから39年目の令和4年3月29日に96歳でその生涯を終えました。

 岡野絹は桑原時雄の妻盛古の、行きつけの美容院を営む、下町の商人らしい、明朗で気風の良い人でありました。
 若い頃一度結婚したとの事ですが、「亭主がぐうたらだったので、追い出したんですよ。そして縁があって欧州航路の客船の美容師となり、あちこちの国に行きましたー。」笑いながら私にそういった絹の笑顔が、今でも浮かんで参ります。
 また、親戚筋に小さい新興宗教の教祖がいるとの事でありますが、「夢で激流に流されて溺れそうになった時、2つの岩があったので、思わずその一つに縋り付こうとしたら、『そっちではない!』と大声が耳に響いたので、今一つの岩にしがみついて事なきを得ました。その岩が小泉先生だったんです。」その昔私に絹がそう云いました。
 時雄が去った後も、平一の元に留まり、熱心に行業に励み、三光太源の斎庭や行事には皆勤すると共に、店が定休日の火曜日には、平一の元に来て祓いのひとがた創りに励みました。
 因みに、今でも私の大祓いの時の祓いのひとがたは、絹が残してくれた物であります。そして、色々と気苦労の絶えないさきにあれこれと気遣いを見せてくれて、さきも絹と、今一人山田武雄の妻道子には、格別に心を許しておりました。
 いよや美代子と違って、平一の神業に特別の使命は持っておりませんでしたが、平一にとっては、なんでも話せる妹のような存在でありました。
 そして、平一がこの世を去ってから12年後の平成7年11月6日に、東武動物公園にある特別養護ホームでこの世を去りました。享年は不詳であります。 
 なお、私は、平一の没後何年間は、この3人に頼まれて、春夏の彼岸の祖霊祭を、私の家で合同でとり行いました。今は朝の祈りの中に、父母、はらから、祖霊と共に、3人と山田道子の御霊の富裕をお祈りしております。