小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

第18話(その1)2015年12月


 平成27年12月吉日


スピリチュアル エピソード 第18話 (その1)

幽界に旅立った“はらからたち”からの応援歌


 「第8話 その1 三兄弟の末子の私が跡取りになったのはー」でお話ししたように、数奇な家系に生を受けながら、そしてそれぞれ使命と才能を授けられながら、夭折した兄達の心情は如何ばかりだったでしょうか。そして、その思いの一端が、全てを託されて現世で苦闘する私に応援歌として伝えられました。
 次兄の道雄は、第8話でご紹介した「三度の訪れ」で、そして幸雄兄は―、
 

その1 「There is way  Here  is will と書きしるせし

       亡き兄の日記 心震わす」

       独身で旅立った長兄の私への応援歌と、

       幽界で結ばれた花嫁の話



 生まれつき病弱だった次男の道雄兄が、27歳で亡くなったのはとにかくとして、元気だった長男の幸雄兄までが、独身のまま40歳で他界したことは、両親はもとより、会員の方々にとっても大変な衝撃でした、“こんなに行業に励んでいるのに、一体、何故なんだろう。”

 幸雄兄は一橋大学の受験に失敗し、
取り敢えず、三光太源会の筆頭であり、使命として託された地下資源開発の無二の同志でもあった北原猪義さんが営む、六本木にあった帽子店「オーシック」に就職しました。
 父の神業が進展しないことから、再びの受験は断念し、その代りに夜、英語学校に通って語学力を身に付けました。
 三十歳になったある日、同じ六本木にあった、当時全盛を誇った「シンガ―ミシン」の前を通りかかった時、“ここがお前の仕事場だ”と云う霊感から、飛び込みで交渉し、語学力と前職がミシンに関わり深かったことが買われて、転職に成功しました。営業職で随分と頑張ったようで、葬儀の際、都内の全ての代理店の店主さんに会葬して頂きました。
 口数が多い方ではありませんでしたが、真面目で意志が強く、信仰心は抜群でした。
 居間のカレンダーには毎月、禊行を示す赤丸がほぼ半分、季節を問わず記されておりました。
 そして三十台の半ばに、霊夢で、奥妙義に、下関にある赤間神宮のご祭神・赤間大神が鎮まっている旨を教えられました。
 妙義山は金鶏、金銅、白雲の三山から構成され、南側の表妙義と北側の裏妙義に分かれます。表妙義は、第一石門から始まる四つの石門と、大砲岩、ろうそく岩などの奇岩が連なり、我が国屈指の山岳美を楽しむ、健脚向きのハイキングコースとなっておりますが、一方裏妙義は、ほとんど人跡未踏の深山とのことであります。
 若かったある時、父平一はこの地に行楽して、後年主支配霊となられた妙義山乗天坊霊神にお目に掛りました。そして、
ここに鎮まる妙義大神が、自らの守護神であることを教えられたことから、いつの頃からか、妙義神社に参詣することが恒例となり、戦前、まだよろずゆとりのあった時代には、家族全員の楽しい夏の行事でありました−。
 詳細は聞き漏らしましたが、幸雄兄は単身、地図を片手に、点在する農家の方々の教えを頼りとして、殆ど人の行かない奥妙義の教えられた聖地にたどり着き、そこにあった赤岩を採取して持ちかえり、これをご神体として祭りました。
 因みに、父が他界した 直後の降霊会で、ローム太霊に父への長年の御教導のお礼を申し上げたところ“赤間の赤石はあるか。あれは力になる”と教えて頂きました。

 その幸雄兄が、初めての胃カメラで胃がん、其れも超悪性のスキールスと診断され、入院する暇もないままに自宅で急逝しました。私が6年間の名古屋支社での苦闘の末、何とか黒字体質にして本社に戻った、ほぼ一年後の事でした。
 “お兄ちゃん、死んじゃ駄目じゃないの”兄の遺体を抱いて何時までも泣きやまない母、
 “神業のための、いけにえに捧げられたのだ”父はそう言って母を励ましながら、しかし、あれ程気落ちした父を見たのは初めてでした。
 “幸雄さんって、やっぱり凄いんですね”
葬式を終えたある日、古参会員の飯浜美代子さんが云いました。
 “先生から、幸雄が危ないんだよとのお電話を頂いた夜、夢を見たんです。天から銀の玉座の様なものが降りてきて、そこに幸雄さんが腰掛けて、そしてそのまま天に昇って行くのです。キラキラ光って、とても眩しかったんですよ―”
 飯浜さんは永年浅草で小学校の先生をして、教え子たちに大変慕われたとのこと、長野生まれの理知的な方で、作り話をして媚びるようなタイプではないのです。そのコトバで、何かほっとしたのを今も覚えております。
 寡黙だった幸雄兄は、夢に姿を見せることはありませんでした。その代りに、長兄らしい方法で私を元気づけてくれました。それは―。

 本社に戻った私は、よろず浦島太郎でした。
 実業の世界に引き上げて、進学への道まで開いて下さった恩師M社長と、ビジネスのノウハウと経理の心を教えて頂いたT専務の間に、複雑な溝が生じており、その渦中に振り回される内に、恩師とのボタンのかけ違いが生じてしまいました。
 昭和48年に始まったオイルショックによる経済不況、そのための会社の業績の悪化、重ねて組合による賃上げのストライキ等々、てんやわんやの日々が続きました。
 その様な中で懸命に務めて、かってのメインクライアント・大手広告代理店での受注のシェア回復や、フジサンケイグループ企業の開拓などの成果を挙げましたが、最後まで恩師の採点は厳しく、その結果が後年の綜研情報工芸発足となったのです。
 しかし、余談になりますが、没後M社長は私の本心をお知りになり、その思いが、新規クライアントからの数千万円の売り上げとなって、私を励まして下さいました。
 「私の背後霊となった恩師M社長の話」後日、このコーナーでご紹介いたします。

 幸雄兄が他界して、何年かたったある日曜日のことでした。仕事や将来の事、あれこれ悩みに落ち込んで、ふと、幸雄兄の遺品を入れたボール箱が目が行きました。
 何気なく手に取ったシンガーミシンの手帳、そこには、小さな字の英語で日記が書いてありました。
 そして目に留まったのが、There is way  Here is willというコトバでした。そして、
 “宗雄、固い意志を持って行業に励めば、必ず道は開けるよ”兄の声なき声が聞こえてきたのです−。以降、時々このコトバを思い出して、力としております。

 幸雄兄が何故結婚しなかったのか、そういえば兄と、そのような話をしたことはありませんでした。
 たった一度、其れも急逝する8カ月ほど前に、初めて家に彼女を連れてきました。しかし、その女性の名前も容姿も、また兄と何所で知り合い、今何をしているのか、そして私は何を会話したのか、漠々として殆ど覚えておりません。

 たった一つだけ、帰り際の玄関で、コートを着る彼女に何か囁きながら手を添えた、幸雄兄の真面目な顔だけが、今でも脳裏に焼き付いております。
 しかし、その後、幸雄兄からも又両親からも、彼女の話を聞くことが無く、兄の葬儀にも、それらしい女性の姿はありませんでした。一体どうしてしまったのでしょうか、今でも疑問が残っております。

 “お父さん、僕、結婚しました”幸雄兄が幽界に旅立って8年ほどたったある日、父と神前で拝んでいると、突然父が手を合わせたまま“はあ、はあ”と頷き、そして私にこう言いました。
 “今、幸雄からそう報告があった。田端雪乃と云う名前だそうだ。北海道の浦河で生まれたと言っている”
 “良かった、兄貴もようやく―”しかしそれ以降、父と母の口から田端雪乃さんの話が出ることはありませんでした。ただ、盆や彼岸などの祖霊祭には、田端雪乃霊人の名前が加えられるようになりました。

 父の他界後、何時の祖霊祭だったか、田端雪乃霊人の名を唱えていると、一瞬ちらっと色白で髪の長い女性の顔が目の前に浮かびました。容姿は記憶にありませんが、何かたまらなく懐かしい、その思いは今も心のどこかに残っております。
 ローム太霊の講話の中に、幽界での結婚のことにふれた部分がありますが、極めて難解のため、研究を進めております。

                                   以 上