ローム太霊がその死を哀惜された父小泉平一の軌跡 |
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前号で予告した「大道」は私の記憶違いで、すでに今年1月にお話ししてありましたので、今回は「空」についての講義をご紹介致します。
「大道』が教える空は
仏教で言う空諦ではない。仏哲の云う空諦、空は一切法の因縁により生じるものだから、実態が無いということではない。
神道で言う中今、時間の永遠の流れの中の中心点として存在する今、単なる時間的な現在ではなく、神代を継承している今ではない
空を求めようとするならば、目に諸々の不浄を見て、心に諸々の不浄を想わず、耳に諸々の不浄を聴きて、心に諸々の不浄を聴かず、心に諸々の不浄を思って、心に諸々の不浄を思わず、身に諸々の不浄を触れて、心に諸々の不浄を触れず、という祝詞の教えの如く、常に一切のこだわりに囚われることなく、あらゆるこだわりを捨てて無雑夢想の境地に遊ぶことを空と云う。
神、霊、幽、現の四神界の実相は、一番下が色という世界、その上が光、空、無、その上が旡というものがある。(光、空、無=純一無雑)と云うしかない界であって、それぞれが言葉に言い様がない無限の高さと、無限の深さを持ち、空境の中にある力は光の中にある力とは格段の違いがある。
無はそれ以上のもの最高のものだから、例えるならば、幽を光とするなら霊は空であり、神は無であるといえるのである。
妙=玄妙=神妙=霊妙
そこに於いて、霊妙の力、玄妙の力、神妙の力を求めんとするなら、あらゆるこだわりがあって、こだわりにとらわれることなく、自身の心を常に統一させて、空境に遊ばせるである。
さすれば自然に光の中のにのれ、空の中のにのれ、無の中のにのれることが出来る様になるのである。
普段の行の力と力をかみ合わせさせて行くならば、偉大なる力が出るのである。
意識して幽界の空境に行こうとするならば、四体積透の術が必要であるけれども、そんなヒチ面どくさい法はいらない。
もっとも簡単で的確にそこに行ける法がある。
最も簡単で的確な法を云うならば、それは眠りである。
ただ眠ってもそうはならない。守護霊よ、眠っている間に、そちらにお連れ下さい。そして、霊妙の力、玄妙の力、神妙の力が身に付きます様、ご指導をお願い致します。そう祈って、そして臍の上に手をやって統一しながら眠る。